院長 広田 雄一 |
![]() |
■ 資格 総合内科専門医:平成6年 日本血液学会・血液専門医:平成3年 日本血液学会・血液指導医:平成3年 日本医師会認定・産業医:平成15年 ■ 所属学会 ・日本内科学会 ・日本血液学会 ・日本アレルギー学会 |
■ 経歴 | |
福岡市内の小学校・中学校卒業 | |
昭和48年 | 福岡高校卒業 |
昭和55年 | 九州大学医学部卒業 |
同年 | 九州大学第一内科研修医 |
昭和56年 | (旧)九州厚生年金病院研修医 |
昭和57年 |
九州大学第一内科にて 研究生・医員・助手を歴任 |
昭和60年12月 | 松山赤十字病院内科勤務・のち副部長 |
平成元年11月 |
カナダ・オンタリオ癌研究所・研究員 造血幹細胞と骨髄移植等の研究に従事 |
平成4年4月 | 松山赤十字病院内科副部長・のち部長 |
平成12年4月 | (旧)筑豊労災病院内科・検査科部長 |
平成15年11月18日 |
ひろた内科クリニック開院 現在に至る |
■ 私の経歴 |
<ガンを治す医師を目指しました> |
どんな学生だったのですか? @小学校時:体が弱かった。 幼い頃、体が弱く、すぐに熱を出し、小児科にかかっていました、小学校の卒業文集には、“医学博士になってガンを治す”と書きました。 A 中学から大学までバレーボールに打ち込む、応援団長を経験 中学校になると体も健康になり、中学から大学6年までバレーボール部で練習に明け暮れました。高校時代は上級生が強豪チームであり,試合前は定期試験中にも練習。 ![]() 高校3年生の夏前、従兄弟が医学部進学し、高校の同級生が医学部進学を目指していたこともあり、医学部受験を決意しました。 その頃、体育祭のブロック応援団長就任を請われました。受験勉強の遅れを取り戻す時期でしたので、大いに悩みましたが承諾。夏休みは、体育祭の応援練習に明け暮れ、貴重な青春の思い出を築きましたが、受験は不合格で浪人しました。 ![]() ![]() 1年浪人して、九州大学医学部に合格しましたが、大学入学式前には、もうバレーボール部の練習に参加していました。 B 大学から医師になるまで 大学3年までは、九州大学全学のバレーボール部に所属し、夏の北海道大学での試合で全学チームから引退。その後は医学部バレーボール部に移籍し、九州・山口大会の準優勝が最高成績でした。 運動と医学の勉強に奮闘する中、「限りある人生をいかに充実させたら良いか」と自問していました。 大学4年からは、当時の社会問題になっていた大腿四頭筋短縮症の自主健診団に学生メンバーとして、北九州市から沖縄まで参加。大腿や肩に何百本もの筋肉注射が打たれ、歩いたりや腕を上げることが出来なくなった子ども達を沢山健診しました。 原因には、注射剤の品質の問題や、解熱剤を太ももや肩に簡単に筋肉注射していた開業医の姿勢などがありました。 諸外国がワクチン接種を筋肉注射で行っているのに対して、日本は皮下注射を主流とするようになったのは、この医療問題が原因と言われています。 |
<血液専門医を目指す> |
九大病院の研修医時代に、急性骨髄性白血病の20代の女性に会いました。当時、白血病の治療技術は未発達で、骨髄移植も不可能な「不治の病」であり、ガン患者に「病名を決して知らせない」時代でした。しかし、大半の患者は、残りの命が長くないことを自覚し、悶々と闘病生活を送っておられました。 私自身、彼女の担当医ではありませんでしたが、激励に部屋を訪れると、不思議なことに、激励している私の方が、彼女の生き抜く力に触れ、元気になってくるほど、人前では常に明るく振る舞う女性でした。そんな彼女を慕ってか、多くの友人がお見舞いにきていました。 ![]() ![]() 白血病と解っていた彼女が記した言葉を、私は忘れることができません。 「人間にとって恐ろしいのは、白血病でも、ガンでもない。生きる生命力のなくなった弱い自分だ」と。
彼女は1年に及ぶ闘病生活を経て、眠るように霊山へと旅立って行きました。抗がん剤の副作用で、体がどんなにつらくても笑顔を絶やさなかった彼女の姿に、 「健康か病気かではない。心一つで幸不幸は決まる。『無限の希望』を忘れないことが大事なのだ」 と教わりました。この患者さんとの出会いなかで、白血病を治す骨髄移植・血液専門医への道を選びました。 |
<九州大学から松山赤十字病院、そして骨髄移植の研究でカナダへ留学> |
昭和60年12月、九州大学病院から四国・松山赤十字病院へ赴任。血液疾患の治療で多忙ななか、論文を完成させ、血液分野の研究で医学博士号を取得しました。同時にカナダ・オンタリオ癌研究所へ、当時最高の血液癌の治療方法、骨髄移植と造血幹細胞の研究のため留学することができました。![]() |
<帰国から松山赤十字病院への再赴任、骨髄移植・造血幹細胞移植の実施> |
平成4年3月に帰国。松山赤十字病院へ再度赴任。血液疾患への通常抗がん剤治療を継続していましたが、大量抗がん剤治療を可能とする骨髄移植・自己末梢血幹細胞移植を可能とする機械や無菌室を、上司の協力も得て数年かけて構築。 骨髄細胞や末梢血液から造血幹細胞を採取し、プログラミングフリーザを使用し液体窒素等で凍結保存する処置を一人で行いました。終了した時には深夜になっていました。 |
<阪神・淡路大震災の救護ボランティア活動> |
平成7年1月17日阪神・淡路大震災が起こりました。翌日18日夜に大阪へ向かい、震災の被害が最も激しかった神戸市・長田区の避難所で、5−6百人いる方々の健康維持・治療に従事しました。同時に、余震の恐怖と寒さに震えながら、震災で倒壊した「道無き道」を地元の方と医薬品を持参して訪問。足の打ち身や切り傷、ストレスや寒さでの発熱等の被災者の方々に対応しました。 それまで当たり前にあった建物や道路が、あっという間に倒壊した現実に、人生観の大きな変化がありました。 ![]() ![]() |
<血液悪性疾患の治療マニュアルを執筆>![]() ![]() ![]() |
血液疾患の{悪性リンパ腫」治療方法の論文・書籍の執筆をさせて戴きました。(押味和夫編・著、中外医学社「白血病・リンパ腫・骨髄腫ー今日の診断と治療、1997年) 日常の患者さんの治療にあたる傍ら、何百という文献を読了。1960年代から1990年代までの治療方法の論文を読破させて戴き平成9年に出版。平成12年、平成16年と第3版まで改訂を重ねることができ、先人の治療方法を体系的に学ぶ貴重な経験をさせていただきました。この時の勉強が患者さんの治療に大いに活かされました。 |
<2000年4月から九州・筑豊の地へ転勤、その後開業> |
平成12年4月から(旧)筑豊労災病院に勤務。それまでは担当しなかった糖尿病・高血圧などの一般内科の治療や腹部超音波検査などを担当。診療の領域を拡大することができました。 その後に種々の準備を終え、2003年11月18日に福岡市中心の中央区で念願の「ひろた内科クリニック」を開院することができました ![]() |
<健康セミナー活動> |
平成2年に福岡に赴任してから、週末の休日を利用してボランティアとして健康セミナー活動を継続してきました。現在まで約300会場、延べ5万人の方々へセミナーを担当してきました。![]() 日常生活での知恵として「風邪予防」から「シャンプーの方法」・「歯の磨き方」・「入浴」はたまた「靴の選び方」等。 診察の短い時間ではありますが、お気軽にお尋ね戴ければ、何らかのアドバイスをさせて戴きます。 |
<熊本地震の救護> |
平成28年4月14日と16日に発生した熊本地震では、避難所の救護に着任しました。初日は余震が続く中、寝袋の持参を忘れたため、寒さに震えながら床に寝ました。 |
|